石巻へその6
石巻へ行って参りました。
この度は市の北東部にある北上町十三浜へ、北上川河口より、リアス式海岸沿いに13の集落が点在する地域です。
ほとんどが漁業集落で、ワカメや昆布・フノリなどの海藻類、ホタテ・アワビ・ウニなど豊かな水産資源に恵まれた所です。
震災の被害は甚大で十三浜全体が被災し、石巻市北上総合支所と吉浜・相川の小学校含む約600戸が全半壊、死者・行方不明者は約230名に上りました。
写真は北上川下流

十三浜の一つ、白浜。海水浴場としても人気だったそうです。

白浜の海岸堤防予定地、紅白のラインに沿って造られます。

予定表の立て札

傾聴の場は北上中学の向かい、
多目的スポーツ施設に建てられた「仮設にっこりサンパーク団地」です。


178戸、北上町最大の仮設住宅団地です。
決して広くはなく商店も一つだけで不自由が多いとのことですが、
開成仮設と違い交流のある集落の方々ばかりでなので
隣近所の一体感を感じました。
この日は移動販売のコンビニが来ていました。

先ずは外回りの準備から。K師、ヤル気出してるね!

お迎えの準備を進めます。

綺麗なお花も飾ります。

手のひら地蔵などのアイテムも並べて。。。

Café de Monk オープン☆

手分けして各戸に来店のお声がけです。
平日のためか半数以上が仕事などでご不在でした。

「昼はねー、あんまり家に人いないっちゃ」

今日のお菓子も素敵です。この日はパティシエさんも来ていました。

月浜の方、家は全壊しました。
自宅の白いソファーがかなり離れた前出の白浜に流れ着いたそうです。
この方より吉浜小学校(月浜)の被災状況をうかがいました。
津波は最上階/3階の天井付近まで達しました。
当時生徒6人と教職員10人が校内にいましたが屋上の天辺に逃げ、迫りくる津波を前に全員で手をつなぎ励ましあったそうです。幸い、ギリギリのところで津波が通り過ぎたため難をのがれましたが、救助を待つ間、あちこちから助けを求める声が聞こえ、先生は生徒たちに耳をふさがせたそうです。
また、火葬ができずに土葬を余儀なくされた方々の悲しみを話してくださいました。
強い憤りの中で行われた土葬ですが、現場に立ち会った親族から極めて厳粛に執り行われたと聞いたそうです。
自衛隊の方々が最高の礼を尽くして行われたとのことで、悲憤の思いが少しだけ和らいだそうです。現在はそれぞれの墓所に改葬されました。

木村師はNPO法人みやぎ子ども養育支援の会を主宰しておられます。
穏やかな笑顔でいつも子供たちに大人気です。

イケメンのT師は女の子にモテモテ、ハンドボールやかけっこ、鬼ごっこと引く手あまたです。
お疲れさまでした。

カフェ・デ・モンク主宰のガンジー金田師、皆さんでつちぼとけを作っています。
このあと金田師より「ちょっと一緒にきてくれないか」と声をかけられ、あるお宅へ伺いました。
「この方は支所(石巻市北上総合支所)で勤めてた娘さんを津波で亡くされたんだ」
支所は新しく堅牢な建物で避難先にもなっていましたが、予想を超えた津波の前に全壊、中にいた市職員と住民57人中54人が犠牲となりました。
「生き残った3人の証言で当時の様子がわかったんだよ、今日は三回忌のお勤めだ」
厳粛にお勤めし、お念仏申させていただきました。
お勤めの後、ご夫婦よりお話を伺いました。
ご主人「どうしようもない悲しみの中での2年だったが、
新たに船を建造し漁に出たり、ワカメを作ったりする中ですこしずつ前向きになってきた」
「アワビもウニもたくさんとれるよ、海は再生してきてる」
奥さん「もう二度と海は見たくないと思っていたし、
行きもしなかった。昔は大好きだったんだけどね」
「でも、夫が何度も誘ってくれてね。このごろやっと海にでるようになったのよ」
「いまは岩場のフノリをとって、みんなに配るのが楽しみなの」
岩場は地盤沈下して渡りにくく、フノリを干す道具もなくなってしまったそうですが、工夫して作っているそうです。
私が「豊かな海なんですね」と言うとご夫婦で肯かれ、
金田師が「実に豊かだ、海は津波で全てを壊し、奪っていったが、豊かな恵みを与えてもくれる。ここで生きて行けと言ってるんだ」と言うと涙を浮かべ肯いておられました。
金田師の言葉は胸の奥深くにスッと入り、私も大きく肯いていました。
あの日以来、休むことなく現地の方の心に寄り添い抜かれてきた方だからこそ発することのできる力強くあたたかい言葉です。
己の未熟不明を恥じ、感動しながら金田師の言葉を聴きました。
また、ご主人が「神楽まつり、やろうとしてるんだ」と言うと
金田師は「まつりは大事だ、前に進む力になる」と言い、皆で笑顔になりました。

いただいたワカメとフノリ、フノリは特に味噌汁にあいます。

