掲示板の言葉

お釈迦様の言葉を集めた、法句経(ほっくきょう、パーリ語ダンマパダ)というお経の一節です。
自分の事を他人から悪く言われたくないなあ、と思うのは皆さん同じだと思いますが、
自分でどんなに注意深く過ごしていても、何かしら悪く言われるものです。
たくさん話して自分を理解してもらおうとしても、また、謙遜して少しだけ話しても、
あるいはいっそのこと黙っていても、やっぱり悪く言われ、
それが自分の耳に入ると心外で腹が立ちます。
私もその苦しみを味わうことがよーくあります。
けれど、カッカした頭が冷えて自身を振り返ってみると、
案外「何かしら」自分の問題点がみえてくるものです。
中には本当に不条理で腹立ちが収まらないケースもありますが、いずれにしても思うのは、
ああ、私は人から良く思われたいし好かれたいんだなあ、ということです。
そんな、肥大した自己愛に
「ま、良いんじゃない?そのくらいでしょ、あなたって」
「よそとくらべなくていいじゃない」「ほしがるよね~」
とつっ込みを入れてくれるお釈迦様に、
ぶつぶつ文句(仏々Monk=坊主かな?)言いながらも、
等身大の自分を知らされるのが上記の至言です。
仏教の面白さって、こんなとこにあるんじゃないかと思います。
仏教に出遇うまでは、腹立ちが収まらなくってほんと苦労しました、
若い時は記憶力もいいですしネ。
腹立ちが収まらないと、どんどん悪い方向へ流れて行って、結果、
ナンでこんなことになってしまったんだろう、ってことになってしまいます。
そんな私に、
「いつまでもつづかないよ、何事も。いいことが続かないのは良くしっているでしょう?」
「悪いことや、不快なことだって同じだよ。永遠に続くように嘆いているけど、
そんなことはないよ」
「欲しかったものに飽きちゃうように、苦しみにも飽きる日がくるよ。
無くなりはしないけど、苦しくはない」
「そのことを諸行無常って言うんだけどね」と教えてくれるお釈迦様の言葉は、
苦痛をやわらげ、自己を振り返る余裕をいただく中で、
気がつくと案外平気な自分に育ててくれます。
日常誰もが経験することだからこそ親しみを覚え、胸にスッと入っていくのでしょう。 合掌
掲示板の言葉

この時節美しい花を咲かせる蓮ですが、
蓮は、泥池でなければ育ちません。
一般的には泥にあっても泥に染まらず咲く花として、
汚泥のような我欲の迷いや苦しみの俗世にあっても
それに染まらず清らかな悟りを保つことの例えとなっていますが、
悟りの「花」と我欲の迷いの「泥」とは別のものではありません。
泥がなければ蓮の花は咲きません。
迷いという汚泥があるから悟り(めざめ)の花が咲くのです。
このドロドロ、グズグズした汚泥こそ私たちの人生といえるでしょう。
愛しあい、思うようにならぬと憎み、損をした得をした、
他と優劣を比べていい気になったり落ち込んだり、
こんなはずじゃなかった等など、底の知れない汚泥の深さです。
命(みほとけ)は、この汚泥にあます所なくしっかりと根をはりめぐらせて、
汚泥をまるごとつつんで常にともにあります。
汚泥のなかにあっても蓮根を切れば真っ白なように、
私たちの暗き迷いを晴らす智慧と、
どのようなものがどのような苦しみにあっても必ず救うという慈悲が
強い願いとなって汚泥に染まらず、汚泥を目あてにあかあかと輝き呼びかけてくださっています。
私たちが苦しみの中でその真実にであうとき、そこに「悟り(めざめ)」の花が咲くのです。
苦しいからこそ、悲しいからこそ、「めざめ」のよろこびにであうことができるのです。
たのみもしないのに、苦を転ずるはたらきがしっかりと
常に私たちの身におよんでいることに 「うなずき」
安心をいただき感謝の念をもって日々歩みたいと思います。
掲示板のことば

なにもかもすべてを失って、呆然立ちつくす沈黙の重さは計り知れません。
しかし、耐え難い苦痛の中にあっても自らの足元は地面に沈み込んでは行きません。
大地をしっかりとふみしめ、私をささえて力強く立っています。
私は小さく、弱く、壊れやすく、はかない存在だけれど…
私を生かす命(みほとけ)は量り知れない時の流れと、限りない輝きそのものです。
永遠の時の流れと無限の輝きが、私の今を生きてくださっています。
胸に手を当ててください。そこにそのままの私を抱きしめて
願い続けてくださる命(みほとけ)の呼び声が響き渡っています。
私はまだ終わっていない。ひとりではない。
胸に脈打つ命(みほとけ)の呼び声とともに、
何度でも何度でも立ち上がり歩んで行けます。
どんなきっかけや方法でもかまいません。
命(みほとけ)の呼び声に応えて参らせていただきましょう。
同じ命(みほとけ)のもとに兄弟であるわたしたちも、いつもあなたとともに歩んでいます。
掲示板のことば

色んな思いを抱えて、朝起きるのがつらい時がありますね。
生きている事に感謝しなさいと言われても、
身体や心の苦しみ、痛みから、とてもじゃないけど感謝なんて出来ない。
それどころか、「また、朝が来てしまった…」「苦しいのになんで目が覚めるんだろう」
と思うこともあるでしょう。
しかし命(みほとけ)は、苦しく、つらい私とその痛みを共にして、
離れることなく常にあたたかい慈しみの光で照らし、おさめとってくださっています。
たとえ私がいっぱいいっぱいで、余裕なんかなくて、ただただ苦しいだけの時に。
私が命(みほとけ)を忘れても、
命(みほとけ)は私の事を片時も、決して忘れることはありません。
「苦しいね、つらいね」「でも、あなた一人にはさせないよ」「いつもいっしょだよ」
「大丈夫だよ」「私と一緒にいこう」と朝の目覚めの中にうながしてくださっています。
私が嫌でも、朝、目が覚めるのは、
この命(みほとけ)の呼び声とともにあるのだと聞かせて頂き、
自らの歩みを「このままでよいのか?」と、真摯に命(みほとけ)にたずねながら、
「うん。じゃあ、少しがんばってみようかな…ありがと、ほとけさん」
と頭を上げて歩ませて頂きたいと思います。
掲示板のことば

私たちは毎日の生活の中で、
自分の思いが叶(かな)うことを、一番に考えながら暮らしています。
しかし、思い通りにならない現実に突き当たると、
その苦しみから来る、怒りや憎しみや悲しみに振り回されながらも、
自分の気持ちだけで生きることが出来ない事実に気が付かされます。
ああ…気持ちだけで生きている訳じゃなかった。
「自分が、自分が」と思う気持を動かす為にも、電源の様なものが必要だけど、
それは、不思議に授かった「いのち」から頂いていたのだなあ。
これが無ければ生きる事の出来ない、一番の授かりものだった。
自分の思いを超えた、「いのち」に生かされて、生きているのが本当の自分だったんだ。
「いのち」は私たちに何かを注文したり、さいそくしたりすることはありません。
どんな私であっても、朝、目がさめる事にさしつかえはありません。
生まれてこの方ずっと無条件で私を受け止めて、支えてくれています。
その事実に気付かされて、知らされます。
自分は一人だと思っていたけど、ひとりじゃなかった。
あたたかい「いのち」の育(はぐく)みと二人連れだった。
仏教では「いのち」は「ほとけさま」とそのお慈悲と説きます。
私たちは独りひとり、いつも「ほとけさま」に願われて、
いっしょに暮らしているのだとお聞かせを頂いて、
安心して心豊かに日々を歩ませて頂きたいと思います。